本質感

世の中の出来事や日常をモチーフに、「セカイの本質」を考えみつける思考ブログ。物語とユーモアをまじえ、「あらたな視点」をあなたに

「オマエは役に立たない人間だ!」という人は、役に立っていない

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ある若者のお話。
僕の歩く先に、彼らがまちかまえていた。緊張が走る。
すると、僕に気づいた彼らは、にこやかな顔をして大声で呼びかけてきた。
僕は、仕方なく財布をとりだし、彼らにお金を渡す。
募金、ありがとうございました!

視点蝶基金に募金をする時は…

こんにちは、視点蝶です。

最近、通りで募金している人をみかけたわ。
そこで、ふとこんなことを思った。

募金箱のサイズって、どのくらいのサイズがよいのかしら?
もし、すごい巨大な募金箱と、普通の募金箱、すごい小さい募金箱があったら、どの募金箱がたくさんのお金を集めるのかしら?と。

私の想像じゃあ、小さい募金箱の方が、意外と高い金額入れそうな気がするわね。
小さい箱をみた人は、「こんな小さいなら、そんなにお金がたまらないだろう。可哀想…なら、このサイズで多くの金額にするには…そうだ、お札をいれないと!」となるのかも(笑)

そんなわけで、今回は「役に立つ人間」のお話。

オマエは役に立たない人間だ!

たまに、人から仕事の話を聞くと、仕事ができない人の話が出てくるわ。

みんなが普通にできることが、その人は上手くできない。
作業が遅かったり、よく大事なことを忘れてポカをしたり。
まあ、どこの職場でも、たまにそういう人がいたりするのだけど。

そして、そんな人を見て、ある人は「オマエは役に立たない人間だ!」という。
直接いう場合もあるし、裏でコソコソとそういう話をしたりする。
いう人は、その人より優秀だったり、普通だったりする。
その人よりは、少しは仕事ができる。
その人よりは、「自分は役に立っている人間」と思っている人。

似たようなことは、社会でも起きているわ。
例えば、世の中には大人になって働いていなかったりする人がいる。
事情はそれぞれだけど。
そして、そんな人を見て、ある人は「オマエは役に立たない人間だ!」という。
もちろん、それを言うのは「自分は役に立っている人間」と思っている人。

しかし、ここで疑問が起きるわ。
では、「オマエは役に立たない人間だ!」という人、「自分は役に立っている人間」だと思っている彼らは、本当に人の役に立っているのかしら?

いいえ。
考えてみると「自分が役に立っている」と思っている人は、本当に役に立っているわけじゃない。

「会社」の役に立つ

会社を例に考えてみるわ。

仕事をして、役に立っている人。
それは、単純にいうと「会社で利益をあげられる人間」。
仕事のできない人は、たいした利益をあげられない。できる人は利益をあげれる。

しかし、会社の利益のために役に立っているかもしれないけど、それは「本当に人々のために役に立っている」こととは別の話。
会社の利益=人々の幸せ」ではないわ。

会社が儲かれば儲かるほど、人々が幸せになるといわれたら、誰でも違和感を感じるはず。
人のためというより、会社の人間、または会社の一部の人間のためだったりする。
それが主で、それ以外の社会全体の人々のためではないわね。

そして、不味いことに、自分が役に立っていると思っている行動、会社の利益をあげようとする行動が、人々に悪い影響を与えることもあるわ。

例えば、自分の会社が、人のために良いと思って売っている商品やサービスがある。
スマホなんて、すごい便利な商品だけど、人のコミュニケーションに悪影響を与えている部分もあるし、歩きスマホや、運転中のスマホで事故が起きたりもする。
また、健康食品が最近よく売られているけど、「健康食品をとりいれてるから、もう健康に気をつかわなくていい」と思いこみ、運動をしなくなり、逆に不健康になるケースだってある。

物事には、「良い面」もあれば、「悪い面」が必ず潜んでいる。
だから、いくら良いと思えることでも、悪い影響がどこかで生まれていることがあるわ。
この世に、完璧に良いことだけを与える商品なんて、どこにもないですし。

そして、そもそも商品に効果が怪しいものや、商品に欠陥が悪影響があることを知りつつ売りつける会社だってあるわね。
(あの◯◯◯の家具を買ったら、すぐ壊れたのよね…。まあ、安いし…)
酷いケースなら、たまに事件にもなるし、事件にならないグレーなものもたくさんある。
社員である自分は、何となく気づいてはいるけど、自分は良いことをしていると思い込もうとして、どんどん売りつけようとする。
時には、そういうことをまったく知らず、自分が売っていることだってあるわね。

さらに、役に立って会社がどんどんと大きくなる。大企業といえるものになる。
大きくなれば、人々に大きな貢献ができるようにみえるけど、逆に大きく悪影響与えることにもなるわ。

例えば、大企業がある地方に出店すれば、商店街などの小さなお店はアッサリと潰れるし。
小さなお店が潰れると、その町の商店と住民という良い繋がりがアッサリと潰される。
町の自立した機能が、アッサリ崩れる。
それでも、町のために、ずっと出店してればまだいい方だけど、利益があがらないとなるとアッサリと引き上げていく。
それで、町はどうなったの?誰が幸せになったの?本当に幸せになったの?

そんな風に、大きくなればなるほど、与える悪影響も大きくなるわ。
だから、役に立って大きくなるということは、大きなリスクも背負っていることに。

確かに、会社は存在しているだけで、社会に貢献している。
単純に税金払ったり、人を雇ったりすることで、人の生活をささえていたりする。
しかし、だからそんな会社に役立っているから、自分は人の役に立っていると考えるのは安易すぎるわね。
安易に答えを出し、その先を考えないのは危険なこと。

このように考えると、会社に役に立っている人は、本当に自信をもって人々の幸せのために、人の役に立っているといえるのかしら?

「社会」の役に立つ

会社と同じようなことが、社会でもいえるわね。

普通の人」は役に立っている。
働いて利益をあげ、経済を動かしたり、はたまた税金をおさめ、社会を安定させる手伝いをしたり、そして子供を生んで、次の世代へと社会に貢献したりしてる。
また、正しいと思う政治家に投票したり、正しいと思う国や町の政策に賛成したり、正しいと思うことを企業や学校に求めたり、正しいと思う子育てをしたり。
彼らのおかげで、人間社会を上手くまわってるし、正しいと思う方向へ進んでいる。役に立っている。
会社でいうと「利益」をあげている。

しかし、人々の幸せのために、本当の意味で役に立っているかは別な話。
社会の利益=人々の幸せ」ではないわ。

ちなみに、会社でいう社長は、社会でいうと誰にあたるかといえば、「偉い人」とか「お金持ち」かしら。
役に立っている人は、下手をしたら、一部の偉い人やお金持ちのために役に立っているだけのようにも見えるわ。
世界のお金は、数%のお金持ちが持っているんだっけ?何なのでしょうね、それは?
結局、昔から平民が頑張って、一番特をするのは偉い人やお金持ち。変わらないシステム。
なんだか役に立っている人は、彼らのためにせっせと頑張ってるようにも思う。
そんな風に思わないように、変な膜がかかっているけど。手品みたいに。

そして、もちろん会社と同じように、自分が社会の役に立っているようにみえて、悪影響をひろめてることもある。
自分は、そんなことしてないと思っていても、実はそういうことが裏で起きてたりする。
歴史や社会をよーく見れば、そんなことはいくらでも起きているわね。
見えてないだけで、見ようとしないだけで。

なので、社会に役立っている人も、本当に役立っているのか怪しいわ。

「地球」の役に立つ

おまけに、地球で考えてみる。

地球規模でみれば、人類はまったく役に立たないわ。
つまり、「自然」の視点で考えると。

地球からすると、地球環境を破壊する人々は役に立っていない。
山や木はどんどん伐採され、資源はどんどん食い荒らされ、動物はどんどん絶滅危惧種になっていくと。
人がいるだけで、すごい害だ。

動物や植物が、もし会話ができるなら、「オマエら役に立たないよ!地球から出てけ!」というでしょうね(笑)

まとめ

「自分は役に立っている人間」だと思っている人がいる。
しかし、人の本当の幸せから考えると、役に立っているようにみえて、実際は思っているほど役に立っていなかったりするわ。
そして、悪い影響を一切およばさずに、ただ役に立っているだけの人間はいなかったりする。

本当の意味で「人の役に立つ」のは、難しいこと。
簡単に答えを出せるものでもないし、完璧な答えもないのでしょうね。
人が生きている間、ずっと考えることなのかしら。

なので、安易に「自分は役に立っている」と思うのは危険だと思うわ。
特に、「オマエは役に立っていない!」と人にいうのは、気をつけた方がいいわね。
賢明な人なら、そんなことはおごかましくて言えない。

そして、もし人に「オマエは役に立っていない!」と言われたならば、こういえばいいわ。
私を幸せにできない会社は、ほんと役に立たないわよ!」と。
または、
私を幸せにできない社会は、ほんと役に立たないわよ!」と。

そういえば、かの松下幸之助もいってたわね。
役に立たない人なんていない。会社がその人を育てるものだ!みたいなことを。
今の社長の人達は、そんなことは言わないのかしら。

ちなみに、「社会」と「会社」ってどこか似てると思ったら、「会社」の文字を逆にしたら「社会」なのね。今さら発見したわ(笑)

エピローグ

今回のお話は「募金」に似てるわね。

人は、募金をすると、たいてい無条件に「自分は役に立った」と思う。
しかし、その募金が目的の人のために、本当に役立つかは別な話。
その活動自体が、その相手に本当に幸せをもたらすとは限らないわ。

思ったより、たいした効果のないことだったりもするし。
下手をしたら、悪影響だってあるわね(実際、そういうこともあった)。
最悪、募金自体が嘘、またそれに近い場合もあるわね(実際、そういうこともあった)。

そもそも、人は募金はするくせに、「募金箱の先」は考えないのよね。
相手がどこの誰で、どんな状況で、どんな生活をしているのか?本当に困っているのか?その募金活動で実際どんなことをするのか?募金したお金のいくらが、実際にその人達に届くのか?そもそも募金しているグループは何者なのか?などなど。

募金をして、後は気にもしない。思い出しもしない。
ただ募金をした行為に、「自分は役に立った」という思いに酔いしれる。

とはいっても、実際にその募金で助かっている人が、たくさんいるのも事実だけど。
もちろん、毎回クソ真面目にそういうこと深く考えるのもシンドイことだけど。

ここで言いたいのは、たまには「募金箱の先」を考えほしいということ。
お金チャリンといれて、ハイ自分は役に立った!、ハイ思考停止!でなくてね。
でないと、安易に「自分は役に立つ人間」だと思う羽目になり、本当の人の幸せ(または本当の自分の幸せ)を考えようとしないし、自分がする行為の悪影響の可能性について考えることをしなくなるわ。

また、安易に考えたもの、手にしたものは、いつかアッサリ壊れる時がくる。
そして、恐ろしい目にあうこともあるし、下手したら自分を見失うこともあるし。
安易というのは、とても怖いもの。

なので、少しは募金箱の先へ行ってほしいと思うわ。
それがきっと、本当の意味で人のため、また自分のためになるのだから。

もちろん、ここでの募金の話は、抽象的な意味ですからね。
自分が情熱をかけている「仕事」や「人」に対しては、特に「募金箱の先」を考えてほしいわ。

さて、今回の記事は人の役に立ったのかしら(微笑)