本質感

世の中の出来事や日常をモチーフに、「セカイの本質」を考えみつける思考ブログ。物語とユーモアをまじえ、「あらたな視点」をあなたに

日本人でなくなった日本人(昔の「和」と現代の「普通」)

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ある少年少女の話。
少女はハッとなり、彼の手をはじいた。
あなたは誰?彼じゃない!彼はそんなこと言わないもの!
少年はいやらしく顔を崩し、不敵な笑みをみせる。
「クククッ。こんなに簡単にバレるとはな。これが愛の力ってやつかい。」
そして少年は大きな高笑いをし、彼ではない何かに変わっていく。
最近のニセモノって、精巧ですからね。

 変化する視点蝶

こんにちは、視点蝶です。

東京オリンピックの準備は進んでいるのかしらね。
いろいろ問題が起きてるけど、日本人なら大丈夫よね。
日本人には「和を重んじる文化」があるもの。
「和」がうまーく円満に物事を解決してくれるわ。

海外にも素晴らしいものだと評価されているし。
「和」は日本人として、とても誇らしいものよね!

でも、ちょっと待って。
今の日本人は「和」なのかしら?

いえいえ、違う。よく視たら違う。
昔は「和」だったけど、いつの間にか現代は「普通」になってるわ!
なんてことなの!

そんなわけで、前回に続き今回も「普通」の話。
当たり前のね。

「和」とは何か?

どういうのが昔の「」か考えてみるわ。

(1)1人1人の個性を大事にする
昔は、頭の悪い子も、体の弱い子も、乱暴な子も、要領の悪い子も、どんなダメでも1人の人間として認めていた。
ただその人のあるがままを、素直に受け入れていた。
ダメな人間なんて1人もいなかった。

(2)みんなのためのルールがある
なんでも自由であれば、人は幸せになれるわけでもない。
人は身勝手な生き物なので、ルールがなければあっさり崩壊する。
でもただルールがあればいいわけでなく、「みんなのためのルール」でないといけない。
みんなが幸せになることができるルール。
好き勝手に自己中心にならないような、困っている人や弱い人を助けるようなルールなど。

(3)繋がりを大切にする
人と繋がることが、とても大切なことだと理解していた。
繋がりが自分の、みんなの幸せを呼ぶことをわかっていたから。

「普通」とは何か?

そして現代の「普通」を考えてみるわ。

(1)個性をなくすことを求める
みんなと同じであることを求める。
個性なんて邪魔。個性的な考えなんていらない。みな同じ考えでないといけない。
みんなと同じになれない、普通になれない人間は人ではない。
周りからズレた、頭の悪い人間や弱い人間、ダメな人間なんて人と認めない。

(2)誰かが(自分だけが)得するためのルールがある
みんなのためではなく、誰かが得するためのルール。または自分だけが得をする。
または「多数決のルール」ともいえるのかしら。
多数決のルールは「みんなが渡っていれば、横断歩道を赤で渡ることは正しい」ということ。
どんな悪いことでも、多数が正しいといえば正しくなる。
そこに本質的な正しさなんてない。本質的な正しさがなければ、幸せになるのは特定の誰かだけ。

「みんなが指示する権力者がそういってる!だからそれは正しい!」「みんなお金を稼ぐことが大事といってる!強い人間が弱い人間を利用して稼ぐのは正しい!」「みんな個性が大事といってる!だから自己中心になることは正しい!」「みんなイジメてる!だからイジメは正しい!」
そういうルール。

(3)繋がっているフリをする
繋がりは別に大切だと思っておらず、とにかく都合上、繋がっているフリをする。
繋がりに意味があると思っていない。しかたなく。
ただ都合のいい関係で、利用できるかできないか。得か損か。

いつの間にか「和」から「普通」に変わっていた

簡単にいうと和とは「みんなが幸せになるもの」
普通は「誰かだけ(また自分だけ)が幸せになるもの」といえるわ。

なぜそのように変わったかというと、日本人は「自己中心的」になったからかしら。
「みんなのため」の逆は「自分のため」ですし。

キッカケはもちろん、ある誰かが自己中心的に自分の欲のために、都合よく変えたのでしょうね。
彼らにとって得なのは、人々は「和」でなく「普通」であること。
「普通」であることが彼らには儲かるし、自分たちが権力を持ちやすくなる。
「和」というのは彼らにとって邪魔でしかない。
「和」は儲からないし、自分たちの権力が強くならない。
また「和」は、自分たちを脅かす存在になるので、「和」であると困る。
だから「和」を意図的に壊し、日本人を「普通」にしたのかしらね。

彼らとは誰かはしらないけれど、まあ国の経済が成長するということは、自然とそういうことが起こってしまうわ。
まあ、他の「普通」の国と同じようになっているだけの話。
だけど「和」が変に変化したせいで、余計おかしな状態になっているのが悲しいところね。

まとめ

今の日本人は「普通」を「和」だと勘違いしているわ。
和を重んじてると思っている。
いつの間にか私たちは「日本人」でなくなったことに気づいてない。

まあ昔の日本人がそんなにきちんと「和」ができたかというと、それはそれで疑問だけど。
今に比べれば「和」に近いものが、あちこちにあった。
江戸とか、けっこう素晴らしい「和」があったりしたようだし。

日本人は「和」を取り戻すことができるのかというと、まあ国全体で取り戻すのはもはや無理ね。
でもたまに、「和」のある企業とか、グループとか、町をみかけたりする。
やはりそこには基本として「みんなのためのルール」があるわ。
ルールがあるだけでも意識は変わるわよね。

当たり前なことをいうけど、「みんなのためのもの」でないもので、物事はうまくいくわけがないわ。
「普通」である今の日本がうまくいってないのは当たり前。
ほんと当たり前なこと。

(おまけ)前回の記事「日本人は感情的」から

前回の記事で書いたけど、「普通」になると「普通でなくなる」ことに対し過剰なまでに不安を抱くようになるわ。
そして、常に不安を抱えて生きることになり、不安から感情的に物事を判断するようになる。
もちろん感情的に判断すると物事はうまくいかない。
という話。

その「普通でなくなる」ことは、いいかえると「恥(はじ)」ということ。
でも「和」の時の「恥」とはぜんぜん違う。

「和」の時は「人として恥ずかしい行為をする」ことを恥じていたわ。
それは、自分の欲だけに溺れること、人のせいにすること、人をおとしいれること、弱い人間を助けないこと、物事から逃げること、そういった人として当たり前の行為をしない自分を恥と考えていた。

みんなが人として恥ずべき行為をしていないのに、自分だけがしているということを恥じる。
それはそうよね。自分だけそうだったら恥ずかしいわよね。
だから「恥ずかしいことするな!」と言っていた。

しかし現代では「普通でなくなる」ことが恥になってしまったわ。
皆と同じ意見をいわない、皆と同じ行動をとらない、個性的な意見をいう、頭悪いこと、体が弱いこと、地位が低いこと、収入が少ないこと、皆と同じように生きてない、そんなことを恥と考えるようになってる。
それは本来「和」で考えていた恥ではないのに。
今はどんな気持ちで「恥ずかしいことするな!」と言っているのでしょうね。

そういえば、日本は「恥の文化」とも誰かいっていたわね。
なんでこんなにも変わってしまったのかしらね。
何もかもまるで違うのに。

少女がもし、彼のことを見破れなかったら、どうなっていたのかしらね。

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