本質感

世の中の出来事や日常をモチーフに、「セカイの本質」を考えみつける思考ブログ。物語とユーモアをまじえ、「あらたな視点」をあなたに

生きることが苦しくなるのは「選択肢」がないから(書籍『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』の感想)

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ある少年の話。
少年は絶望していた。
残りは2日しかない。手元をみるとそこは白の世界しかなかった。
真っ白、真っ白、真っ白、真っ白、真っ白。
セミの声はまったく聞こえなかった。
そう、彼は夏休みの宿題をまったく手をつけていなかったのだ。
まあ、よくあることよね。

あと一問正解で50億円ゲットする視点蝶

こんにちは、視点蝶です。

本はいいわよね。いろんな発見がある。
人が一生かけて考えたことが、一冊の本につまっていたり。
新しい視点がたくさんつまってたり。
通常の体験だけじゃ限界ですものね。
限界を超えることを求めるのが人ですし。
でも限界なんてまったく超えてもいないのが人なのですけど。

そんなわけで、今回は「存在」のお話。

書籍『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』を読む

今日が人生最後の日だと思って生きなさい
今日が人生最後の日だと思って生きなさい』小澤竹俊

書籍『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』を読んだわ。
この本は、ホスピス医の小澤竹俊氏が、2800人を看取ってきた体験談を元に、人生の最後をどう生きるか、人生の今をどう生きるか大切なことを書いている。
ちなみに「ホスピス医」とは、末期のがん患者の医療の専門施設で、患者を支える医師のこと。

薄めの本で、短いページで項目が分けられていて、1つの項目が簡単に読め、本の途中からでも気軽に読める本ね。
人は最後に何を考えるのか、生きてるということはどういうことなのかを考えさせられたわ。
やはり人は最後に何を思うのか?って、こればっかりはそうそう体験したり、人から聞けるものではないですし。

わたしが特に気になった部分は「実は、誰もが人生を思い通りに生きている」という項目の言葉。

「選ぶことの自由があること」は、自分らしく生きるうえで、不可欠な要素です。選ぶことができる自由が損なわれると、人はときとして、自分の存在価値を認めることができないほどの苦しみを味わうことになります。

『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』小澤竹俊(P.44)より引用

老いていき、1人ではトイレが難しくなって介護される状態になった場合。
本人はオムツはしたくないのに、介護する側に勝手に決められてオムツにされたりする。
好ましいのは本人の意思で選ぶことで、もし自力でしたいのなら、昼間は用をする時に手伝ってもらったり、夜はポータルブルトイレでするという方法がある。
また最終的には1人ですらできなくなるが、その時も「誰に下の世話を託すか」という選択する自由をもたせることができる。
といった話の時に出てきた言葉。

ただ介護をしてあげればいいのでなく、相手に対して「選択する自由」を与えているかどうか。
「選択する自由」を与えないということは、相手の存在を否定することにもなり苦しめる。
「選択する自由」があることで相手の存在を認めることにもなり、本人も自分の存在を感じることができる。存在を感じるから生きる気力が湧いてくるし、幸せも感じることができる。

そこで思ったの。
これは別に「介護」の時だけでなく、いろんな場面でもいえることではないのかと思ったわ。

親子

例えば、親子の関係
親が、いろんなことがまだできない子供に世話をする。
また、教育としていろんなことを教えようとするわ。
介護とは少し違うけど、けっこう似ている関係よね。

でもその時に親は本当に子供に「選択する自由」を与えているのかしら?
なんでも親が勝手に決めてやってあげていないかしら?
コレとコレどっちがいい?」と聞くことはあるのかしら?
そういうことは、いろんな場面であるわ。

今日着る服を選ぶ、遊びを選ぶ、お菓子を選ぶ、みたいテレビを選ぶ、欲しい服を選ぶ、色を選ぶ、どのお手伝いをするか選ぶ、勉強の進め方を選ぶ、塾を選ぶ、学校を選ぶ、転んだ時に自分で立つか助けてほしいかを選ぶ。

でも親は子供だと思って、何もできないわからないと思って、なんでも親が決めつけてやってしまう。
なんでも決めつけて選択肢を奪い、子供の存在を否定する。
愛情や優しさのつもりでやっていても、うっかりすると怖いこと。

そう考えると、過剰な愛情によって存在を否定された子供がストレスかかえたり、うつ病になったりしてしまうのもわかる気がするわね。

会社

会社というのも同じように怖い場所だと思うわ。
会社は組織なので、上の者に下の者が従う関係
そういう関係になると、自然と「選択する自由」がなくなる危険性があるわね。

上司が部下に対し、選択肢を与える形だとよい関係が築けるが、ただ命令するだけの関係になってしまうと「部下の存在否定」につながっていく。
ワンマン社長な会社だと、特にそういう形になっていくでしょうし。
存在を否定され、人として認められず、ただ道具として使われる。

また「マニュアル」もそういうところがあるわね。
マニュアルで従うだけで、何も考えなくていい。「考える」という選択が何もない。
考えて余計なことをやられては困るのだから。

そうなると苦しくなるのは当たり前。
最近は会社で、うつ病(また新型うつ病)になる人も増えているのは、そういう点もあるんじゃないかしら。

もちろんそういう会社で、皆が皆そうなるわけでもないでしょうね。
会社以外のところで、「選択する自由」があり気持ちの余裕があれば、会社のストレスはあるが大丈夫かも。
しかし景気が悪い、また労働時間が厳しいといった状態だと、1日のほとんどが会社にいるような形になり、人によっては休日出勤せざるを得ない人もいるでしょうね。
そんな余裕のない生活になると、「選択する自由」がない状態が長時間続き、ひどく苦しい状態になるわ。

昔はまだ「社員を育てる」みたいな感じがあったけど、今はそれが弱くなってきている。
育てるというのは、ある意味「選択する自由」を与えていたといえるし。
あえて選択肢を与え、自分で考えさせて、育てていく。
それが間違った選択をしても、それが経験となり、長い時間をかけて育てていく。
しかし今は長期で育てる感じではなく、ただ命令する形になりがちね。

日本人

日本人」という大きな視点で考えてみても、そういうことがあると思うわ。

日本人は特に1つの選択を強くしいられる。
みんなが同じように普通に生きる」という選択。
それ以外の選択肢は認めない。

なのでわたしたちは時々苦しくなるわね。
それ以外の選択する自由がないから。勝手にそう決められてるから。
普通でない生き方をすると、責められる。
それは結局、はじめから「個人」として存在が認められていないのではないかしら。

日本人は幸せそうに見えない、生き生きと見えないというのは、そういう点もからんでいるのかもしれないわね。
もちろん、そんな決められた選択肢を無視して、強く生きる人はたくさんいるけど。
とにかく日本に住んでると、他の選択肢は当たり前のようにはみえてこない。

つくす女

そう考えると「つくす女」というのはとても危険ね。

あれやこれやと男性の全てをつくす。世話する。
朝は起こしてあげるし、着替えもさせてくれるし、歯を磨いてくれるし、髪もセットしてくれるし、朝食も食べさせてくれるし、靴も履かせてくれるし、駅までついていき、素敵な笑顔で見送ってくれる。

あれ?おかしいわね。彼女に介護されているのとあまり変わらない。
そして彼には「選ぶ自由」は何もない。
彼は何もしなくていいのだから。彼女が全部やってしまうのだから。
そして彼の存在は認められない。
けっこう怖い話よね。愛せば愛すほど、相手の存在を殺しているなんて。

そりゃあ、次第にダメ人間になって、別れるはめになるわね。

自分

相手に対してでなく、自分に対しても考えれるわ。
「相手から選択の自由を与えられない」は「自分に選択肢を与えない」とも言い換えることができる。
思い込み」というのもそう。
1つの考え、1つの選択肢に支配され、それ以外のことは考えない。
それは自分の否定につながっていくわ。

自分は何もできない人間だ」と決めつけ、いろんな状況でいつもダメな選択しかないと考える。
自然と自分の存在を否定することにつながる。
「自分はできることもあるけど、できないこともある人間だ」という考えと違うことはあきらか。
もちろん逆で「自分は何でもできる人間だ」と思い込むのも不味いわね。足をすくわれる。

自分の意見や行動は絶対正しい」という「自己中心」なのも不味い。
もちろんそんな考えで進むと、苦しくなる。
だって完璧に正しい人間なんていないのだから、あちこちで自分が間違っているという現実を受けてどんどんダメージをくらう。
自分で自分を苦しめている状態になっている。素直に自分そのものを認めないのだから。
「自分の意見や行動が正しい時もあるが、そうでない時もある」だと選択肢があり、気持ちに余裕ができるわね。

みんなに好かれたい」と思うのも危険かな。
どうもそういうことを思う人は、うつ病になりやすいようだ。
みんなに好かれようと、みんなに気をはっていてストレスになるよう。
そんな完璧なことは無理なのに、そういうことを考えてしまう。
なので「好かれる場合もあるが、嫌われる場合もある。それはそれでいいと割り切る」だと選択肢があり、気持ちに余裕ができるわね。

自分の存在を認めるとは「自分に選択肢を与えることができること」ともいえるわ。

「考えなくなる」という影響

存在を否定されて苦しくなるけど、他の影響もあるわね。
それは「考えなくなること」。

特に、親子関係の子供とか、仕事の部下とか。

子供は「選択」の体験をしなくなるので、選ぶ、つまり考えることがなくなるわ。
その結果、「考えることのできない人間」が出来上がってしまう。
そうなると何かあると「ママ、ママ」と母親に答えを求め、依存していくのでしょうね。
「母親さえいれば人生もう大丈夫」という状態が。

仕事だと「選択」がないので、仕事の力がつかなくなるわ。
考えることがないのだから。上が決めてくれるのだから。何も考えなくていい。
そんな関係でいるのに、急に「新しい企画を考えろ!」とか、「もっと成績あげろ!」とか言い出す始末。つらいわね。

つくす女も、そういうところがあるわ。
最近『解決!ナイナイアンサー』の番組で、つくす女の女優の人が相手につくしているうちに、「お母さん」と呼ばれるようになったみたいなの。
それもつくすことで「考えることのない」状態を作ってしまったのね。
この場合は、男性は「お互いの関係性」を何も考えなくなってしまい、「女性の存在がない」ものと考えるようになってしまったのかもしれない。
そこにいるのは1人の女性でなく、誰か知らないけど、僕になんでもやってくれる存在。
つまりは…お母さんかな?という感じかも。

まとめ

わたしたちは、うっかり相手に対して選択肢を与えず存在を否定している。
また自分に対しても選択肢を与えず否定している。
そして選択がないと「考えなくなる」という影響もでてくる。
この点を注意して生きていきたいわね。

相手を否定することはもちろん不味いが、その前に自分を否定することが不味い。
たいてい苦しくなる時は、選択肢が1つしかない時だから。
考えて選択肢が見つかるならいいが、そうとも限らないし。
盲目的になって気づかない場合が多いだろうし、単に他の選択肢を知らないという場合もある。
やはりそういう場合は、人に相談することでしょうね。
相談することで選択肢がみつかるし、新しい視点が生まれる。

そんなわけで「選択肢」の重要性を気づかせてくれた本だったわ。
他にも感銘を受けたところはたくさんあったけど、今回はこの部分を。
機会があったら別の点を考察したいわね。

みなさんも一度は、人生の最後(また人生)について考えてみませんか?
死ぬ間際になってから人生を考えるのは、やはり遅いですよね。
まあでも人って夏休みの宿題のように、その時にならないと考えないかな。

今日が人生最後の日だと思って生きなさい

今日が人生最後の日だと思って生きなさい

  • 作者:小澤竹俊
  • 発売日: 2016/01/23
  • メディア: 新書
 

(おまけ)震災後の「選択肢」

東日本大震災についても、この「選択肢」に関することを考えさせられたわ。

震災が起きた後には、いろんな人が助けてくれる。
助けてくれるのはもちろん嬉しいし、大切なことだ。
しかし被災者は、次第に苦しくなる。

ボランティアや行政など、いろいろやってくれるのはいいのだけど、全部やってくれて自分は何もやらなくてよい状態になってしまう。
ただ世話をされている状態に。何の選択肢のない状態。

また自分の意思とは関係なく、物事が決められたりする。
行政が暮らしを戻すために、他に優先的にやることがたくさんあるものだから、細かいことは勝手に決められたりする。もちろん時には大きなことも勝手に決められる。
選択肢がない状態に。存在を無視された状態に。

避難している人なら、いろんな自由がなくなっている状態、つまり選択がなくなっている状態に。また、震災によって自分の「人生の存在」を築いてきたものが、人や家や町が地震で壊れたり、津波によって流されてなくなってしまった。
そんな時に、さらにそんなことをされたら余計つらいわよね。

でも場所によっては、そういう状態が不味いことに気づき、状況を改善したところもあったわ。
被災者になんでもやってあげるのでなく、自分たちでやれることはやったりと。
行政も勝手に決めずに、住民の話をちゃんと聞いて、選択肢を与えつつ、話し合いをしていったり。まあ、でもそれはよい方のところなのだろうけど。

人をただ助ければいいというわけじゃない」ということはそういうことでもあるのでしょうね。
「人助け」と一概にいっても、難しい。
とにかくそういう場面でも「選択肢」の重要性に気づかされたわ。